創竜伝 (7)
竜堂家の屋根裏には、納戸と、天窓のついた12畳ほどの板の間がある。
これが末っ子の余の部屋である。
昨年まで終の部屋だったが、弟が中学生になった時、部屋の所有権が交替した。
終も中学生になった時、続からこの部屋を『相続』した。
だいたい『屋根裏部屋』を嫌う子供はいないから、公平を期するためにそうなったのである。
現在、終の部屋は余の部屋の真下にある。
2階の東南角だ。
2階には他に、兄2人の寝室と、客の宿泊に使われる8畳と6畳のつづき和室がある。
は1階に作業部屋と合わせ2部屋使っている。
表面的には平和な数日が過ぎ、4月に入ると、新1年生の終としては、多少勉強に心がけなくてはならない。
極端なところ、口煩い長兄の手前が繕えていれば良いのだが、これがなかなか容易ではないのだった。
始は、世界史の教師としては あるいは、しても 型破りだった。
試験前にどういう問題が出るか、生徒に教えるのである。
全部、記述式の問題で、自筆のノートを持参してもいいという、ある意味大学の試験に近い形だ。
終としては、型通りの授業をやってくれる日本史の方を選択したいのだが、始も続も、終は世界史を選択するものと決めてかかっている。
だけは、「どちらでも好きな方でいい」と言ってくれるだろうが、その前に「自分の学びたい方を」と付けるだろう。
「もともと勉強は、古代ローマ時代は自分の欲求を満たすための娯楽だったんです。今は勉強をしなければならないとされていますが、そんなものは、自分から学びたいと思ったことの10分の1さえ感心が持てず、いずれ忘れておわりですよ」
「年代を知りたければ年票を見ればいい。単語を知りたかったら辞書を使えばいいんだ。大事なのは自分のテーマと方針を持って勉強することで、点数のために必死に数字や名詞だけ詰め込み暗記するなんて、人生に何の意味もない。ノートを自力で作ることが大切なんだから」
どちらも正論である。
ただし、逆に言えば山をかけての一夜漬けが出来ないことになる。
中学時代、山かけ名人として鳴らした終には、それが切ない。
「中国時代の長江の役割について記せ。古代ギリシアにおける都市国家について記せ...こんな問題、1行や2行で書けるはずないよな」
終はため息をついたが、まあ、焦ることはない、と思う。
どだい兄達のように大学で専攻する気もないのだ。
それに、兄のような叔父が行ったのは大学ではなく専門学校である。
必ず大学に行くわけでもない。
とりあえず、単位さえ取れればいい。
第一、始は理事につづいて講師も辞めるかもしれないのだ。
窓を開けて、終は夜気を吸い込んだ。
昼の雨が霧に変わって、湿った大気の手が、終の顔をなでた。
こういう天気だから、遊びに出る気にもなれず、体も気分も調子が狂って、つい予習なんてしてみようかという、妙な考えを起こしてしまう。
ひょいっと下を見ると、庭に人影が見えた。
それがパジャマを着た余であることに、終はすぐ気がついた。
「あれ、余の奴、また病気が出たのかな」
終は瞬きと呟きを同時にやってのけた。
兄達(を含む)と従姉の茉理しか知らないことだが、余には夢遊病の気があるのだ。
小学校に上がる前には、廊下に出るぐらいのことは珍しくもなかった。
階段から転げ落ちて、祖父を下敷きにしかけたところ、が受け止めたこともある。
ここ2年ぐらいはおさまっていたが、再発したのだろうか?
長兄の始は、いつも、余に夢の内容を詳しく話させて、ノートに記録している。
終が見せてくれと言うと、「購読料をよこせ」という言い方で拒否するのだった。
一緒に聞いているに尋ねても、申し訳なさそうな顔で、「いつか必ず話すから、今は聞かないでくれませんか?」と言われてしまう。
にはその申し訳なさそうな顔に、何となくこちらも悪いことをしたような気になって聞かなくなったのだが、長兄には、それはないよな、と終は思う。
数日前には、余が誘拐されかけたのを救出したのに、兄達から見れば、いつまでも半人前らしい。
とにかく、余には、当人の意志とは別に、奇異なところが様々あって、死んだ祖父母も、末の孫のことを、1番気にしていた。
何にしても、夜中に夢遊病で出歩く弟を放っておく訳にはいかない。
勉強を中断する大義名分が出来て、終は張り切った。
時計は11時過ぎて、4月6日も残り少ない。
足音を忍ばせて1階に下り、スニーカーを履いて玄関を忍び出る。
すでに余は、門から道路へ出てしまっていた。
「哲学堂にでも行くのかな?ちょっとまずいぞ、そいつは」
哲学堂がまずいのではない。
竜堂家からそこへ行くまでには、新青梅街道を横断せねばならないし、夜間にはしばしば大型トラックが通過する。
トラックが余にぶつかって大破でもしたら、大変ではないか。
この心配は、竜堂家以外の者には分からない。
自分たちが、様々な意味で、一般の人たちと異なることを、終も兄達も知っている。
1番大人しいのは、末っ子の余だが、実のところ、最も危険なのは、おっとり気性の子の末弟なのであった。
あの歳の近い叔父ならば、それが分かっていても余を心配するだろうが、あいにくここにはいない。
哲学堂公演は1万5千坪を超す面積があり、この季節、夜桜を見物する人も多いが、雨上がりの霧の夜とあっては、さすがに人影ものない。
木立があり、門や建物が複雑に配置されて、黒々と影をわだかまらせている。
トラックにも出会わず、余と終は公園に入り込んだが、繁みの中で熱心にうごめいている男女の姿を、終は見出した。
「春先からようやるよ」
がいれば、教育に悪いと蹴りとばすだろう姿だが、終は感心しながら、終は弟の後を追った。
終自身には夢遊病の経験がないし、兄達の話を漏れ聞いたところでは、通所の夢遊病とも微妙に違うようだから、何とも言えないが、余の足取りにはそれほど危うげがない。
勉強もこんな具合に無意識のうちにやれないものかなと、終は誰でも考えるようなことを考えた。
雨と霧に湿った土は歩きづらい。
身の軽い終でも、1歩ごとに地面に靴跡を残してしまう。
ふと、終は気付いた。
足跡は彼の後方に残るだけで、前方にはないのだ。
終の視線が、弟の両足に集中した。
靴下を履いただけの余の両足は地に着いていない。
足と地面の間に、指3本を横たえた程の空間がある。
「空中浮揚だ...」
終は息をのんだ。
その現象自体は、彼にとって珍しい物ではないが、他人に見つかると、いよいよまずい。
今更周囲を見回したが、他人の視線はなかった。
だが、そうのんびりとしてもいられない。
強引にでも連れて帰らないと、何が起こるやら知れたものではなかった。
「しかし、夢遊病で空を飛ぶ弟を持っているなんて、東京でも、うちの兄弟くらいだろうなあ」
東京どころか、日本でも、世界でも、そんな存在は竜堂家の兄弟ぐらいのものであろうが、TVに出演して自慢するわけにもいかないのが残念である。
夢遊病でなければ、彼の叔父は自由に飛べるのだが、こちらの世界で飛んだことはないので誰も知らなかった。
......怒声が響いた。
繁みの中から、男が立ちあがって、ズボンをずり上げながら、お楽しみを邪魔した少年を口汚く罵っている。
余が、繁みの傍を通るとき、男の足に触れてしまったようであった。
男は、学生とも勤労者とも思えず、おそらく、組織的自由業であろう。
けばけばしい原色のポロシャツのポケットから、夜だと言うのにサングラスを取り出してかけた辺り、基本に忠実な男なのかもしれない。
女の制止する声も聞こえるが、それが一層男を好戦的にしたようで、荒々しく余の胸を突き飛ばした。
なめとんのか、このガキ、という喚き声が終の耳に届いた。
走り出そうとした終の肩を、誰かが軽く押さえた。
ありがとうございました!
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