創竜伝 (9)







続は、兄の部屋の扉をノックした。

読書に夢中になると、多少の物音など聞こえなくなる兄なので、かなり強いノックを繰り返す。

ようやく返答があると、続の後ろにいたは養父にそっくりな始の性質を再確認して苦笑する。

始の部屋は広く、空気はやや冷たく乾いている。

重々しい(かし)のデスクに漢文の書物が拡げられていた。

「読書中だったんですか?」

「うん、『八犬伝』の種本をちょっと」

「水滸伝ですか?」

「いや、新五代史(しんごだいし)だ。盤瓠(ばんこ)と言う犬が、飼い主のために敵将の首を取って来て、約束通り飼い主の姫を妻にすると言う伝承が載ってる」

「八房と伏姫ですね」

「もっとも、こっちはハッピー・エンドだがな...で、余がどうかしたのか?」

本を閉じると、始は後ろ向きに椅子をまたいだ。

は始の妙に子供っぽいしぐさに笑みをもらしながら運んできたコーヒーをデスクとサイドテーブルに置き、続もソファーに腰を下ろす。

事のあらましを続が話し終えるには3分で足りたが、某組織的自由業者への対応はに一任することは直ぐに決まった。

「...と言う訳です。まあ、大したことにはなりませんでした。やくざが一人伸びていまったのと、終君が木の枝で擦り傷を作ったくらいですみましたけどね」

「終君には傷の消毒をちゃんとして、余君も汚れを落とした後でもう眠りましたから。あ、そうだ。あとでちょっとそのやくざが所属してたところ潰してきますね」

の過激な発言に普通に頷きながら、始は椅子の背を指先で叩いた。

「余が中学に入って以来、そんなことはしばらく絶えていたんだがな」

「富士山だって、100年に1度くらい噴火しますよ。今夜の件なんて、後日になってみれば、ごく些細なことでしかないかもしれません」

「まあ、やくざが絡んで来なければいつも通りの夢遊病で終わっていたでしょうしね」

始が身動きすると、椅子が抗議するように(きし)んだ。

「覚醒が近付きつつあるということかな?死んだ祖父さんが言っていた」

「覚醒、ですか?そのことで、余君自身が、ちょっと気になることを言っていましたよ。今まで見ていたことが夢なのか、目が覚めてしまってからが夢なのか分からないって...」

「夢から覚めた瞬間に、そういう状態になるのは珍しくないと言えばそれまでですけれど...」

始は指先であごをつまんだ。

「荘子だな。(われ)、夢に胡蝶(こちょう)となるか、胡蝶、夢に我となるか...漢民族ってのは大したもんだな。2500年も前に、内宇宙(インナー・スペース)の実在と関係を哲学に昇華させていたんだからな」

書棚に視線を投げる。

祖父が生前に集めた洋書や漢籍、それに加えてが集めたさまざまな古書が、独特の匂いを3人の嗅覚に流し込んでくる。

「それにしても、どうも気になる。余の誘拐を企んだ奴らは、結局、何が目的だったんだ?」

「それは余君の覚醒を防ぐためでしょう?」

「もしくは余君の身の確保でしょうね。一応、家では年少者ですから私達への人質にでもするつもりだったのか...」

始は小首を傾げた。

「と、俺も思った。しかし、ものは考えようでな、刺激は常に一定方向から来るとは限らない」

「すると余君の覚醒を促すために、危害を加えると言うんですか?」

ソファーの上で、続は長い脚を組み直した。

「でも、そんなことをして何になるんでしょうね。第一...」

「「第一?」」

「覚醒したらどうなるのか、本当のところ誰にも分かってないんですからね。僕らにも。それとも敵には分かっているんでしょうか?」

余の誘拐を企んだ連中を、敵とは即断できないが、この際他に呼び様がないのだ。

「敵が動く、こちらが対応する。そういう形で、仕方ないんじゃないでしょうか。僕らの立場は、野球でいえばバッターなんで、ピッチャーが投げてこなきゃ何も出来ませんよ」

「ピッチャーがね」

「制球の悪い、しかもビーンボールを投げるのが好きなピッチャーですがね」

「まあ(うち)にはそんなのに当たるような子はいませんけどね」

微笑みながら相変わらず自分たちを子ども扱いするに、続は苦笑しながら頷く。

「...監督は誰だろう?」

「監督...ですか?」

「こういうとき、敵方には、何でも知って事態を操っている大物がいるものさ。関越自動車道の件は、とうとうマスコミには出なかったし、よほど勢力のある奴が絡んでいるんだろう」

始はふと考えた。

あるいは、靖一郎叔父や古田代議士の策動も、根はそこに繋がっているのだろうか、と。

続が前髪を指先でかき上げて言う。

「でも、本当に、どんな利益を目指しているんでしょうね。そいつらは」

「私利私欲のために悪事を働く人間なんていないさ。ヒットラーがユダヤ人やスラブ人を4000万人も殺したのは、ゲルマン民族の千年王国を地上に建設するためだ。世の中に悪人なんてひとりもいない、正義の味方で溢れているから、こういう素晴らしい世界が出来上がったのさ。余を誘拐しようとした連中も、たぶん正義感に燃えているんだろうぜ」

「人間は正義のためならどんな犠牲も(いと)いませんからね。その犠牲の中に自分が含まれてなかったらですけど」

始とは目に見えない敵に向かって毒づいて見せた。

そして始自身は知りようもなかったが、彼の結論はほぼ正しかったのである。















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